移民の子どもの隣に座る 大阪・ミナミの「教室」から
玉置 太郎 (著)
著者は移民を支援する教室にボランティアスタッフとして参加し、その何年間もの実体験を元に、アカデミックな言及もあるこのノンフィクションを記している。教室の場所はそれぞれ大阪ミナミと英国ロンドンの2カ所であり、人と人とが距離を取らざるをえないコロナ禍の時期は前者の時期と重なっている。
本書を読む際、論理の流れにおいては本当にひっかかるところがなくさらさらと進むが、描かれている状況を想像するために、読みが止まることも多かった。そのタイミングは大概、移民の人々が各々対峙する苦難を乗り越えようとしている様子を、その隣に座る著者の視座から丁寧に綴っているところで、私の涙腺はちょっと刺激されがちだったりする。
途中には「国際文化学部」という見覚えがある学部名が登場し、おやっ?と思って検索すると、著者は私が以前関わっていた某所の広報誌にも登場している方だった。そして本書で「災害ユートピア」という言葉を初めて知ることができた。同時に、阪神・淡路大震災のあった1995年がボランティア元年と呼ばれていることを思い出した。災害ユートピアに関しては人間性のひとつの現れ方として興味が沸いているので、別の書籍を読んでみたいと思う。
また、下記は、本書の最後のほうに登場する一文である。日本の社会が移民をどう捉えているのかを考える上で、短いながらもなんと核心に迫っている言葉だろうかと衝撃を受けた。この“違和感”はなぜなのか?という問いを考えたいとき、そしてこの“違和感”をもたないほうへ社会を変えるヒントを得たいとき、本書は手に取る一冊になる。
「日系アメリカ人」という呼び名は広く受け入れられているが、「フィリピン系日本人」という表現に違和感をもつ人は多いだろう。
玉置 太郎. 移民の子どもの隣に座る 大阪・ミナミの「教室」から (p.291). 朝日新聞出版. Kindle 版.